実写VRを撮る。

実写VR撮影の現場からの奮闘の記録

スーパーブルーブラッドムーン


スーパーブルーブラッドムーン 皆既月食 Super Blue Blood Moon 2018 January 31 Tokyo

1月31日の皆既月食を撮影しました。VRじゃないですが。

曇りの予報が外れて冬の澄み渡る空で観測できました。

レンズが250mmまでしかなくて、APS-CサイズのEOS70Dでなんとか400mm相当にはなるものの、もうちょっと望遠が必要ですね。

編集でクロップしてます。

 

スーパーブルーブラッドムーン」って名前だけでありがたみが満載ですが、

満月の「ブルームーン」、地球に近くなり大きく見える「スーパームーン」、そして地球の影に入っている間に赤く見える「ブラッドムーン」という三つが重なるという大変珍しい現象だったのですね。

 

毎夜何気なく空に浮かんでいる月でも「何十年に一度」という特別な表情が見られるとなると特別なものになりますね。

スーパーブルーブラッドムーン」皆さんはどんな場面で眺めていましたか?

第3回「実写VRにおける視点について」

前回、「VRは『見せる』というより『連れて行く』感覚で構成する」ということをお話ししましたが、今回「視点」について考えていきたいと思います。
 
今回は、2Dの感覚でVRを撮影して失敗した私の経験を述べます。
「やすおじいちゃん物語」という、家庭における認知症の方との関わりかたを体験する作品を作ったときのことです。
物語の冒頭で、五人家族であること、生活している空間などの設定を短く簡潔に伝える必要がありました。
ここで私は2Dでよく使われる俯瞰カット、高めのポジションから全体を見下ろす手法で撮影しました。状況を説明するために、広く見渡せる映像から始めるのは基本中の基本の無難な演出です。
和室でこたつを囲んで和やかに談笑する家族のカットとダイニングでテーブルに向かって座る家族の姿の2カットをそれが一望できる高めのポジションから撮影したのです。
しかしどうでしょう、編集が進み、社内で初めての試写をしたところ当該のシーンが始まると、
「うわ!高い!」「高い!ここどこ?」「怖い!浮いてるの?」
 と、口々に違和感が訴えられました。
私としてはそれが狙いであって、編集中のプレビューでも気がつかなかったのですが、ここでVRならではの「自分の視点」というものに気づかされました。
私にとっては俯瞰めで広く見渡せるシーンから始めようと思っていたことが、初めて見る人にとっては「自分」の感覚でものを見ているので、「家庭内」という自分の過去の体験の感覚を持っている空間内で、いつもと違う変わった場所から見下ろすということに対して違和感が出たのです。自分の感覚とは違う「妙に高い位置に連れて行かれた」ということです。
VRにおいて、カメラポジションとは「自分が居る位置」そのものです。
和室で座っている家族が見えているのに自分だけ立っている違和感。リビングで幽霊のように高い位置から見下ろしている違和感。
高いところから全てを見渡せる俯瞰カットで状況を説明したかった私の狙いは崩れました。
では、どの視点で撮れば良かったのか?これは物語全編を通して「視点のルール」に筋が通っているかが肝になります。
「やすおじいちゃん物語」ではこの他にも視点での失敗がありました。
認知症のあるやすおじいちゃんの身になって家族の対応を体験するVR作品ですので、上記の状況説明カットの後にダイニングの椅子に腰掛けているやすお視点に入れ替わります。そしてやすお視点のシーンが終わった後、再び状況説明のためにやすおから離れて腰掛けているやすおが見える視点に移るという繰り返しの構成で物語が進んでいきました。
そうするとどうなるか、体験者は自分のおかれている状況についていけず、
「ここはどこ?私は誰?」
という混乱に陥ったのです。
初めは誰でもない幽霊のような傍観者の視点、次にやすお視点→傍観者→やすお→傍観者と繰り返されると、折角やすおのつもりになって見ているところへ勝手に説明的な傍観者視点にされてしまうことで気持ちが離れてしまったのです。私としては、その時のやすおの心境や表情を見て欲しいと思って作ったつもりが、むしろやすおの気持ちになっているのは体験者本人であり、無用な説明は逆効果だったわけです。
2Dのカット割りがVRに通用しないことを思い知った出来事でした。
カットを入れることそのものが人工的で体験者の意図しないことなのです。
説明のシーンは冒頭だけにして、本編が始まったら可能な限り1カットで編集点を入れず、1カットの時間そのものを体験するのが実写VRドラマの没入感なのです。
 
半年後、「やすおじいちゃん物語」家族からの視点を体験する「息子編」も加えた再撮影が行われ完成に至りました。
 
次回は「アンビソニック録音」について考えていきたいと思います。

第2回「実写VRにおける物語の構成のしかた」

前回は「VRにおけるカメラ目線の効果」をお伝えしましたが、今回はVRにおいての物語の構成、展開を考えていきます。

「視野角90度は広い?狭い?」
実写VR、いわゆる360度動画は一度に全方位を撮影できる技術なのですが、とはいえ体験者が一度に360度全てを見渡せるものではありません。
現在市販されているVR機器は、GearVR、ハコスコなどのスマホで視聴するものから 、HTCVive、OculusLift、PlayStationVRなどのVR専用機まで様々あり、またはGoogleMapのように2D上でドラッグしたりジャイロコントロールに追随させる方法もありますが、ここではHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着したVR体験を前提にします。

一般的に人間の視野は180〜220度と言われているのに対しHMD(ヘッドマウントディスプレイ)は、概ね90〜110度程度の範囲の視野角です。
90〜110度と言われてもピンと来ないと思いますので体を使って説明しますと、「前ならえ」のように両手を目の前にまっすぐ伸ばすと手のひらの間が肩幅になります。その幅を2倍ぐらいに広げた内側にある空間がVRで見えている範囲とおよそ同じぐらいだと思って下さい。
映画のスクリーンか50インチテレビほどの大画面があるように感じられるのですが、作り手としてはこの90度の中に見せたいものを入れなくてはいけない難しさがあります。

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例えば「主人公の驚いた顔」を伝えたいとき、2D映像で編集していく場合は印象的なアップを数秒入れれば十分伝わります。むしろ、ごく短時間の方が緊迫感のあるテンポが出たりします。
それに対し360動画でそれを伝えたい場合、見せたいイベントを入れていても体験者が必ずしもそこを見ているとは限らないので1カット数秒という編集で何かを伝えるのは難しいものがあります。
VRでの構成を考えるときにまず理解しておきたいのは、視点の決定権は体験者にあるので2Dのように強制的に「見せる」ことはできないということです。
無理に何かを見せようと演出すると、かえって体験者の気持ちと物語のテンポが噛み合わず、何かに気がつくのに遅れて振り向いたら大事なイベントを見逃していて、慌てて逆を見たらそちらのイベントも見逃してしまうということが繰り返され、結局さっぱり分からなかったという事態になりかねません。

「連れていく」感じで
この感覚を制作側と体験者を親と子に置き換えてなんとか言語化してみますと、2Dは膝の上に子供を乗せて絵本を読み聞かせているときで、VRは見晴らしの良い山の頂上に二人で到着したときと言えば分かるでしょうか。
子供に絵本を読み聞かせるとき、ページをめくるテンポや声色を使った演出は親の手の内にあって、あの手この手で子供の意識を絵本の中に引き込むことができます。
それに対し、山の頂上で素晴らしい景色が広がっているときに、「ここを見なさい」と強制するより、手を放し本人の感覚に任せて「あそこに動物がいる!」と自分で発見させるものではないでしょうか。
そして一通り満足させた上で興味を持ったものに対し「あれはカモシカだね」などと補足の情報を伝えてあげると納得して理解してくれると思います。

VRは、「見せる」より「連れていく」感覚、または「見る」というより「居る」という感覚で作られるものだとご理解いただけたでしょうか。

HMDを装着し、映像が始まってから最初に見えるのは360度の一部分でしかありません。その世界に突然連れて来られて自分がどの様な状況にあるのか分からないうちに突然イベントが始まってしまうと混乱してしまいます。その前に、辺りを見渡してここがどういう場所であるか確認してもらうための時間を設けてから物語が始まるのが適切な演出と思います。
「VR認知症」シリーズでも、物語が始まって最初のイベントが発生する前に「ここはどこだ?」など自分の心の声を入れ、物語が始まる前にその場を確認してもらう時間を作っています。
物語の中で意図して見せたいものがあるのならば、そこに視点が向くような前フリを入れておき、体験者が自発的に発見するまでの十分な「間」を開ける必要があります。
この前フリが不自然に大袈裟だと作り物感が出て没入感が冷めてしまいますので、なるべく自然な形で入れることで自分で視点を選んだ感覚になってもらうことができます。
この「自然な前フリ」こそが作り手のセンスが見えるところではないでしょうか。
 
実社会でも誰かに指図されルールに縛られると息苦しくなります。VRは自由に視点を選べるのが最大の魅力ですから、自由に思わせておきながらもこちらの意図に誘導するという細やかな演出ができれば体験後の満足度も高いと思います。
とはいえ、大抵の人は物語の中に何も起きなくなったら正面の位置に顔を戻します。そういった体験者の動きの観察も大きな経験となります。
出来上がった作品はなるべく多くの人に体験してもらい、その様子を観察してどのイベントでどう動いたのか何を見ていたのか知っておくのも次の作品作りに活かせる大事なことです。

次回は「実写VRにおける視点」について考えて行きます。

 

 

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第1回 VRと2D映像の違い「カメラ目線の効果」〜目が合うことで得られる自分の存在感〜

「VR映像とは何か?」

今回は基本的なことを考えていきます。
20年近くテレビの映像制作・技術に携わってきましたが2DとVRにおいて、表現手法、制作手法が共通することと異なることが様々あります。

まず、体験者の視点から、この2つのメディアの相違を確認していきます。
2Dの映像は、1つのスクリーンを複数の人で同時に視聴することができるのに対し、VRは個人ごとHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着し、頭を上下左右に動かし自分の意思で視点を変えることができるのが最も大きな違いです。
もちろん、PCモニター上でもマウスやカーソルでドラッグして動かしたり、スマホタブレットに映して平面上でジャイロコントロールに映像を追随させる手法もありますが、真の意味でのVRとはHMDを装着して「その世界に没入する」ことにあります。
HMDの中には上下左右360度に映像が広がっているので、見る人によって視点が変わり、全く同じコンテンツでも人によって受け取る情報が全く異なってくることもあるので、気づいて欲しいイベントを見逃さないよう如何に視点を誘導するのか、ストーリー展開が重要になってきます。
また、それを逆手に取って様々な方向にイベントを盛り込み、何度も体験することで謎が解けるような手法も考えられます。

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自分が存在している感覚
「VR認知症」という、認知症の人の生活を追体験する作品を作ってきて強く感じているのは、登場人物のカメラ目線の効果です。
2Dのカメラ目線とVRでのカメラ目線はその効果が全く違い、映画やテレビでカメラ目線の人物が映っていたとしてもそれはあくまで画面の向こうの世界であって、画面の大きさやカメラのズームといった人工的な環境の違いが介在しており、あくまで表現手法のひとつとしてのカメラ目線なのですが、VRの場合は登場人物がレンズを見つめると体験している自分が見つめられている感覚になります。
VRの中で「目が合う」のです。
登場人物の顔が目の前まで迫られると思わず体を仰け反らせてしまうほどにその視線や存在感は強く、笑顔で語りかけられればほっとして、怒りの表情で迫られれば思わず息が詰まり体に力が入っている自分に気がつきます。

それを踏まえ、VRにおけるカメラ目線という表現の可能性のひとつとして、映像の中の人物が自分に話しかけたり関わってくることで、映像上の人物の存在を感じるだけでなく、自分がそこに存在している感覚を強める効果があることに気がつきました。
観光やスポーツ、ライブなどの特別な場所を特別な視点で観られるVR作品は多々ありますが、この類のVR映像のつまらなさは、自分が常にほったらかしにされていることです。個人的な思い入れが強いコンテンツでない限り、1分を待たずに飽きてしまいます。
しかし、同じコンテンツでもVRの中で自分に語りかけてくる人物が居て、体験者に対し目を合わせ、自分が存在するものとして接してきたらどうでしょう。
映画の主人公がカメラ目線で自分に呼びかけてもそれはスクリーンの向こうの世界ですが、VRの中で自分の目を見て呼びかけられたらその人のことを見ないわけにはいきません。しかも自分が体を動かしてその人の方向を向くわけですから、体感的にも自分がその世界に存在していることを感じていることになります。
その世界の中に人が目を合わせ自分に関わってくることで体験している自分が『その世界に居る』という感覚を得ることができるのがVR特有の新しい感覚なのです。

VR認知症シリーズではその作用を最大限活かそうと模索を続けており、ある作品では駅のホームで独りになって心細くなっているときに「何かお困りですか?」と声をかけられた時の気持ちを再現していますが、体験した方から「声をかけられてホッとした」「助かった、という気持ちになった」など、物語の登場人物の心境を自分のものとして捉えている感想を多くいただきます。

 

疑似体験から体験へ

観光やライブなどの定点放置コンテンツがつまらないと述べましたが、そのコンテンツの中に誰かが一緒に居てくれて、映像の中でポイントを説明してくれたり、一緒に楽しんだりしてくれたら最後まで飽きずに見られる可能性があります。
よく、「VRで疑似体験する」と言いますが、私たちのプロジェクトではあえて「疑似」を使わず「VRで体験する」と表現しています。
VRの中の世界そのものは疑似的なものであるかもしれませんが、視聴した個人が感じる「ホッとした」気持ちや「楽しい」「驚いた」などのそれぞれの心に残ったものは疑似ではなく「体験したこと」と言えるのではないでしょうか。
実写VRの表現として、VRの世界の中に自分が存在している意味を感じさせることができるか、または、なぜこの体験をするべきなのかをどこまで訴えかけられるかが、コンテンツとしての価値を左右するものと思います。

次回は、カット割りや撮影現場におけるVRと2Dの違いを考えていきます。

実写VRを制作しているのでブログを始めました。

株式会社折笠ビデオエンジニヤリングの折笠慶輔と申します。

2016年1月より、株式会社シルバーウッドから業務委託を受けVRコンテンツ制作を始めました。
日々の制作過程や完成までの試行錯誤を記録していきます。
 
2年前の2016年は「VR元年」などと言われていましたが、肌感覚としてはまだまだ2018年もVR元年が続いているように思えるほど、VRの可能性はまだ開花途上にあります。
撮影機器、編集ソフト、録音システムなどの新しい技術が日進月歩で更新されていて、作業効率とクオリティは2年前と格段に違ってきていますが、カユいところに本当に手が届くような状況にはまだ至っていない中、それぞれの制作者がアイデアを絞り出し、なんとかイメージを形にしていく。
そのような黎明期ならではの手探りが今のVR制作の状況であり、また、それが一番の面白さでもあると感じています。
 
まだ、誰も使っていない「手」があるはず。
VRでしかできない表現があるはずだ。
金脈を探しにツルハシ1本で荒野へ旅立ったような制作チームの現場から発信していきます。
 
このブログが、これからVR映像を作ろうとする方々の一助となれば幸いです。