実写VRを撮る。

実写VR撮影の現場からの奮闘の記録

第3回「実写VRにおける視点について」

前回、「VRは『見せる』というより『連れて行く』感覚で構成する」ということをお話ししましたが、今回「視点」について考えていきたいと思います。
 
今回は、2Dの感覚でVRを撮影して失敗した私の経験を述べます。
「やすおじいちゃん物語」という、家庭における認知症の方との関わりかたを体験する作品を作ったときのことです。
物語の冒頭で、五人家族であること、生活している空間などの設定を短く簡潔に伝える必要がありました。
ここで私は2Dでよく使われる俯瞰カット、高めのポジションから全体を見下ろす手法で撮影しました。状況を説明するために、広く見渡せる映像から始めるのは基本中の基本の無難な演出です。
和室でこたつを囲んで和やかに談笑する家族のカットとダイニングでテーブルに向かって座る家族の姿の2カットをそれが一望できる高めのポジションから撮影したのです。
しかしどうでしょう、編集が進み、社内で初めての試写をしたところ当該のシーンが始まると、
「うわ!高い!」「高い!ここどこ?」「怖い!浮いてるの?」
 と、口々に違和感が訴えられました。
私としてはそれが狙いであって、編集中のプレビューでも気がつかなかったのですが、ここでVRならではの「自分の視点」というものに気づかされました。
私にとっては俯瞰めで広く見渡せるシーンから始めようと思っていたことが、初めて見る人にとっては「自分」の感覚でものを見ているので、「家庭内」という自分の過去の体験の感覚を持っている空間内で、いつもと違う変わった場所から見下ろすということに対して違和感が出たのです。自分の感覚とは違う「妙に高い位置に連れて行かれた」ということです。
VRにおいて、カメラポジションとは「自分が居る位置」そのものです。
和室で座っている家族が見えているのに自分だけ立っている違和感。リビングで幽霊のように高い位置から見下ろしている違和感。
高いところから全てを見渡せる俯瞰カットで状況を説明したかった私の狙いは崩れました。
では、どの視点で撮れば良かったのか?これは物語全編を通して「視点のルール」に筋が通っているかが肝になります。
「やすおじいちゃん物語」ではこの他にも視点での失敗がありました。
認知症のあるやすおじいちゃんの身になって家族の対応を体験するVR作品ですので、上記の状況説明カットの後にダイニングの椅子に腰掛けているやすお視点に入れ替わります。そしてやすお視点のシーンが終わった後、再び状況説明のためにやすおから離れて腰掛けているやすおが見える視点に移るという繰り返しの構成で物語が進んでいきました。
そうするとどうなるか、体験者は自分のおかれている状況についていけず、
「ここはどこ?私は誰?」
という混乱に陥ったのです。
初めは誰でもない幽霊のような傍観者の視点、次にやすお視点→傍観者→やすお→傍観者と繰り返されると、折角やすおのつもりになって見ているところへ勝手に説明的な傍観者視点にされてしまうことで気持ちが離れてしまったのです。私としては、その時のやすおの心境や表情を見て欲しいと思って作ったつもりが、むしろやすおの気持ちになっているのは体験者本人であり、無用な説明は逆効果だったわけです。
2Dのカット割りがVRに通用しないことを思い知った出来事でした。
カットを入れることそのものが人工的で体験者の意図しないことなのです。
説明のシーンは冒頭だけにして、本編が始まったら可能な限り1カットで編集点を入れず、1カットの時間そのものを体験するのが実写VRドラマの没入感なのです。
 
半年後、「やすおじいちゃん物語」家族からの視点を体験する「息子編」も加えた再撮影が行われ完成に至りました。
 
次回は「アンビソニック録音」について考えていきたいと思います。